「この訴訟勝てますよ!」には要注意

芥川龍之介の短編の中に「藪の中やぶのなか)」という有名なお話があります。

 

物語の中では、藪の中で死んでいた男性について、様々な証人が一見もっともらしいようで、どこか矛盾する証言をしていきます。

 

読者は真実を知ろうと読み進めますが、散りばめられた証言からは、最終的に真実を推測することも困難なまま物語は終わってしまいます。

 

初めて読んだ中学生の頃、非常にもどかしく、胸をしめつけられるような不安感を、読後感として持った記憶があります。

 

この小説を引用して、「結局、真実は分からないね」という意味で、「全ては藪の中だね」と言ったりします。

 

私は、弁護士引き受けた事件も、ある意味「藪の中」であるまま終わることを覚悟しておく必要があると思っています。

 

依頼者の方が、全ての事実を正確に話してくれているとは限りません。

 

弁護士にとっては大切な事実を言い忘れていることもあるでしょうし、恥ずかしいという気持ちや何となく言い出せないでいることもあるでしょう。

 

最悪のケースでは、弁護士を上手く利用して自分の利益(お金とは限りません)となる結果を得ようとして、嘘の事実を話したり、嘘の証拠を持ってくることも想定しなければなりません。

 

かといって、弁護士が依頼者の方の言うことを疑ってかかっては、良い仕事は出来ません。

 

ですから、依頼者の言うことを前提に戦略を組み立てますが、その前提自体に途中で問題が生じることも常に覚悟しなければなりません。

 

そのため、最初のご相談や受任する段階で

「この訴訟勝てますよ

などと断定的なことを言える弁護士は多くないのではないでしょうか。

 

もちろん、依頼者の方にとって十分な証拠がそろっていると思われていて、相手を叩きのめしたい時には、その言葉を待っているだろうことは想像できます。

 

しかし、訴訟を多数経験している弁護士であればあるほど、訴訟になる場合には、必ず相手から何らかの反論があり、それが法的に見てやっかいなものである可能性も想定するでしょう。

 

そうすると、まだ訴訟すら始まらないご相談や引き受ける段階で「勝てます」などという断定的な言葉は出て来ないのが普通です。

 

法律相談の段階で、弁護士が「勝てます」と言うとしても、「もし〇〇だとすれば」という条件をつけたりするのは、やはり不確定な部分がどうしてもあるからなんですね。

 

ですから、何の条件もつけずに「この訴訟勝てます」という弁護士がいたとしたら、注意した方が良いでしょう。

 

どうしても、その仕事が欲しくて依頼者の欲しい言葉を言っているケースや判断が甘くてそのような言葉を言っているケースがあるからです。

 

もちろん、勝ち筋の事件というのはあるのですが、訴訟の結果が依頼者に方に重大な影響をもたらすことを想像すると、受任の段階では中々、安易に断定的な結論は言えないものです。

 

ですから、依頼する方は、弁護士から「勝てる」と言われたら、その結論だけでなく、

① その根拠となる法律事実関係を分かりやすく説明してもらい、

② 決定的証拠は何にあたるのかを説明してもらうこと

くらいはしておいた方が良いでしょう。

 

それらを充たしていても、それを打ち消す法律の定めと反論・証明がなされれば負ける可能性もあるのですから、その説明だけでも本当は分からないのですが・・・

 

訴訟というものは、最初から結論が出ているようなものではないということを、十分に頭に入れて、ご相談、ご依頼をされることをお勧めします。

 

 

「弁護士のお話」の過去ブログ記事についてはこちらをご参照ください。 

弁護士ブログ村→にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ うれしい顔

カテゴリー: 弁護士の視点from静岡 |

趣味は仕事にするな?

「趣味を仕事にしてはいけない」

 

こんな、「ことわざ」を聞いたことがあります。

 

でも、サッカー選手や野球選手は、もともとそのスポーツが好きで、趣味から始まったものが、仕事につながっているんですよね。

 

とすると、この「ことわざ」は誤りなんでしょうか?

 

私は、小さい頃「小説家になりたい」という夢を持っていました。

 

幼稚園の頃から読書が大好きだった私には、「本を読み始めると止まらない」という悪癖がありました。

 

ジャンルを問わず、本を読んでいると、その世界に入ってしまい、誰が話しかけても全く聞こえない状態になってしまいます。

 

そのため、友達からは「本バカ男」などというありがたくないあだ名をつけられたりしました。

 

学校の授業や勉強に大きな意味を感じていなかった私は(先生すみません・・・)、授業中も、ほとんどの時間、朝から放課後になるまで、本を机の中に隠しながら読んでいました。

 

さすがに放課後は、友達と遊んだり、ギターを練習したりする時間が欲しかったので、本を読める時間は夜か授業中だけだったんですね。

 

ある時、数学の授業中、先生(たまたま私のクラス担任だった先生)が私が本を読んでいるのを見つけました。

 

大きな声で

 

「谷川!今、机の中で握っているものを出しなさい!」

 

と言われました。

 

周囲の友人たちの視線が痛かったのを覚えています。

 

そろそろと出した本のタイトルは

 

「日本落語全集」

 

と大きく書かれています。

 

その頃は、落語の本にはまって、市立図書館などで借りていたんですね。

 

するとその先生は、突然、周囲の生徒たちの方を向いて

 

「読書は人生にとって大切なことだ。好きなことは、何があってもやろうとする、この姿勢を見習え。」

 

と言って、そのまま授業を続けました。

 

もちろん、一番驚いたのは私です。

 

今まで、授業中に本を読んでいて、ひっぱたかれたり、教室の一番後ろに正座させられたことは何度もあっても、褒められたことは一度もなかったからです。

 

「褒められてしまうと、かえってやりにくくなってしまった」と思いつつ、私はやはり本を読むことを止められず、授業中に完読してしまいました(笑)

 

ただ、今から思うと、その先生は、教師という仕事において、「人をどのように成長させるか」ということについて、大きな信念を持っていたのではないかと思います。

 

決して、私がたまたま褒められたから言うわけではありません・・・

 

これだけ好きな読書ですが、私が夢をかなえて小説家になってしまうと、小説の生みの苦しみに耐えかねて、大好きな趣味の一つを失ってしまうのかもしれません。

 

今、弁護士になって思うのは、大好きな読書のミステリというジャンルのうち、「法廷もの」を読む気力が落ちてしまったことです。

 

警察ものくらいまではギリギリ楽しめるのですが、いざそこに法曹(裁判官・検察官・弁護士)の誰かが出てくると、頭が娯楽モードから仕事モードに変わってしまうんですね。

 

いちいち、「手段として適切で実現可能か?もしそうなら仕事の参考にならないか」「これは実務上ありえない」など考えてしまい、リラックスモードが消えてしまいます。

 

そういう意味では、やはり趣味を仕事にしてしまうと、「リラックスして楽しむ」という人生の大切な時間を失うことになってしまうような気がします。

 

例えば、「サッカーおたく」として名高い中村俊輔選手(「察知力」という本は、とても面白かったです)も、サッカーは大好きなのでしょうが、おそらく「趣味として、ただただ楽しむサッカー」は失っているのではないでしょうか。

 

大好きなことに変わりはないのでしょうが、その「好き」という中身が、娯楽と仕事では全く性質が違うように思えます。

 

やはり、「好きなこと=趣味」を仕事にすると、人生の一部を失うことになるので「趣味を仕事にするな」ということわざが出てくるんでしょう。

 

私は、幸い文才が無かったため小説家にはなることができず、「読書」という大好きな趣味の一部しか失わないですみました。

 

その意味では、仕事を選ぶ時って、慎重になる必要があるのかもしれませんね。

 

「ご報告や雑感」のブログ過去記事についてはこちらへどうぞ。

にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ           にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 静岡(市)情報へ
にほんブログ村

カテゴリー: ご報告や雑感 |

素人の意見は法律相談で聞く必要はない?

この前の台風18号と19号はすごかったですね。

 

特に、静岡市では18号の被害が大きかったようです。

 

私の住んでいる所も、近くの川が、突然氾濫して、道路=川状態となってしまいました。

 

私の自動車がその川の近くに置いてあったため、このままだと「自動車が危ない!」という状況になってしまいました。

 

20年くらい前に、1度、水没で自動車を廃車にした経験があったため、溢れている川=道路の中を強引に、運転して移動しました。

 

私の自動車は、スバル・レガシーなので、車高が低めで、すぐに水が入ってきます。

 

氾濫する川、流れる木の破片、次々と流れてくる大きなゴミ袋(その日はゴミの日でした)を避けながら、頼りないエンジン音を聞きながら何とか水が届かない場所に移動できました。

 

徒歩で自宅へ戻る時にも、膝くらいの高さまである川の中を流れにさからい、漂流物を避けて、塀につかまりながら何とか戻れました。

 

まさか、自宅付近でいきなりサバイバル状態となるとは予測もできませんでした(笑)

 

車の被害を免れて気をよくしていた私は、「台風18号、面の皮を洗って出直してこい!」くらいの気持ちでした。

 

ところが、後々良く自動車を見ると、車体左側面に大きくへこんで塗装がはがれた傷痕が!

 

どうも、あわてて左折して自分の駐車場から出す時に左側の塀にこすったようです。

 

先日、スバルに行ったら、修理に約15万円かかるとのこと。

 

「やれやれ、やっぱり台風18号の被害者か・・・」と、がっかりでした。

 

台風が来るとろくなことがありませんね・・・

 

さて、本題にはいりましょう。

 

弁護士は法律の専門家であり、ご相談される方が法律の素人であることは間違い有りません。

 

そうすると、法律相談でも、質問するのはご相談者、答えるのは弁護士ということになります。

 

では、ご相談される方は、弁護士の話す流れの中で質問・事情説明をするだけにして、自分の希望や意見を言わない方が良いのでしょうか?

 

これについては、「ご相談者にご自分の希望や意見があれば、弁護士としては時間の許す限りで、聞いた方が良い」というのが私の意見です。

 

その理由は3つあります。

 

まず、1つめの理由は、ご相談にとどまらず、ご依頼をうけることになれば、かならず依頼者のニーズを聞かなければならないからです。

 

弁護士は、裁判官のように紛争の両当事者の主張を公平に聞く立場にはありません。

 

依頼者の方の味方になって、適法な範囲で、法律を目一杯使って、主張をしていき、依頼者の方にとってできるだけ良い紛争の解決のお手伝いをするのが仕事です。

 

そして、解決の結果を受け止めるのは最終的にはご相談者、ご依頼者に他なりません。

 

とすると、代理人であり、結果を受け止めることができない弁護士が、依頼者のニーズを無視して手続を進めて良いはずがありません。

 

したがって、ご相談の段階においても、弁護士は、ご相談者のご希望やご意見を聞く必要があると思うんですね。

 

その上で、法律の専門家として、要望に添えること、添えないことを、できるだけ明確に伝えるのが良いと思います。

 

2つ目の理由は、素人の意見とはいえ、そのご要望やご意見を何とか叶えられないかと頭をひねると、結構良い法的手段や条文・裁判例を見つける良いヒントになるからです。

 

また、最近では、ご相談者の方がインターネットから情報を事前に得て来ているケースも増えています。

 

確かに、インターネット上の情報は誤りや不正確なものが多いですが、公的な資格のある専門家のHPでは、しっかりとした情報を流しています。

 

そのようなHPから、事前に情報を依頼者の方が探して、プリントアウトしてきてくれたりすると、手間が省ける場合もあります。

 

依頼者の問題解決は、弁護士と依頼者との協同作業だと見れば、時間の許す限りで、ご相談者の知っている情報をできるだけ役立てて問題解決にあたるのが良いのではないでしょうか。

 

最後に3つめの理由ですが、法律相談でご相談者の考えや意見を聞くことで、大きなカウンセリング効果が生まれることです。

 

目の前の問題に切羽詰まって、「もう、どうしようもない・・・」と思っている時に、冷静に弁護士がご相談者の心配ごとや考えを聞いてくれるだけでも心強いです。

 

更には、弁護士から「法的にはこのような解決があります」と聞けば、「どうしようもない問題」が「解決可能な問題」に変わるんですね。

 

その変化は、ご相談者の心の負担を大幅に減らす作用があります。

 

その意味で、法律相談のカウンセリング効果は大きいと思っています。

 

例えば、相続問題で、この先紛争になるかどうか分からないで不安な場合に、弁護士に相談して、もし、ここで相続人の1人が「ハンコを押さない!」と言い出したら、どう解決するかを聞いておくだけでも将来の不安は小さくなると思います。

 

以上のことから、弁護士選びの基準として次のことが言えると思います。

 

まず、法律相談で、ご相談される方が自分なりのご希望やご意見を言ったら、しっかりした説明も無く、頭ごなしに否定されたということがあれば、そのような弁護士には依頼しない方が良いでしょう。

 

逆に、そのようなご希望やご意見に対して、結論としては「出来ない」ということをはっきりと言いながら、その説明を分かるようにしてくれる弁護士が最も良い弁護士だと思います。

 

逆に、仕事を欲しいがために、ご希望やご意見を何でも「出来ますよ」「大丈夫ですよ」と事情を良く聞かず、結論についての説明もなく、全て肯定する弁護士にも要注意です。

 

何らかの問題(経験の幅や能力が低い・依頼者に納得してもらえる仕事をしない結果リピーターや紹介が全く無いなど)で、仕事が来ない弁護士の可能性があります。

 

法律相談では、弁護士は依頼者から多くの情報を得ようとしますが、ご相談される方も弁護士の対応から多くの判断材料となる情報を得るようにしましょう。

 

「弁護士のお話」の過去ブログ記事についてはこちらをご参照ください。

弁護士ブログ村→にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ うれしい顔

カテゴリー: 弁護士の視点from静岡 |

話上手が良い弁護士?

最近、やりきれない刑事事件が続いていますね。

 

北海道の高校生が母と祖母を殺したとされている被疑事件なども、仮に付添人(少年事件の場合には「弁護人」のことをこう呼びます。)になった場合には、相当、慎重にすすめる必要がある事件でしょう。

 

私自身も断片的な情報からですが、色々考えてしまいます。

 

その高校生が、幼児の頃、家庭内で虐待を受けているとして児童相談所の指導が入っていること、門限が厳しいと言って夕方走って帰っている姿が目撃されていること、部屋が「離れ」にあることなどが今のところ気になる事実です。

 

その高校生が「しつけ」だと思っている行為が、具体的にどのような内容だったのか、付添人や家庭裁判所の調査官は詳しく聞き取る必要があるでしょう。

 

逆送(普通の成人と同じように刑事裁判を受けること)するかどうかも、家庭裁判所も悩むし、仮に逆送された場合には検察官も悩む点が多い事件のように思えます。

 

今後もこの事件の推移には、注意して見ていきたいと思います。

 

さて、「話し上手は、聞き上手」ということわざがあります。

 

これは、「本当に話が、上手い人は、他人の話もよく聞いて、その上で自分の話をする」という意味ですよね。

 

弁護士にもこれは当てはまるのでしょうか?

 

このことわざを数字にしてみると、30分の相談時間があった場合には、15分ずつしっかりと時間をとって話をするのが良いように思えます。

 

対等な友人同士だったら、確かにそうでしょう。

 

でも、少なくとも弁護士が相談を受ける時の適切な比率は相当違うと思っています。

 

相談時間が30分であれば、最低でも20分程度は、相談者から事実や気持ち、考え方などの情報を引き出す作業が無いと、適切な法的アドバイスはできないでしょう。

 

特に、厳しい時間制限のある市町村役場や法テラスなどでの無料法律相談では、時折、質問を入れて、ご相談される方を誘導しながらお話を聞くことが必要です。

 

そうすると、弁護士がアドバイスをするタイミングで一番良いのは何時だと思いますか?

 

そう、最も、ご相談者の情報を取得した相談時間の終わりの段階ですよね。

 

その時が、一番、的確なアドバイスをすることができることは間違いありません。

 

ですから、ご相談の早い段階で弁護士が主導権を握って、一方的に話しをするような法律相談だった場合には要注意です。

 

ご相談の時すら話を良く聞いてくれないのであれば、依頼後にその弁護士が依頼者の考え方や気持ちをくみ取ってくれるどころか、話をする時間すら十分とってくれない可能性が高いです。

 

ですから、弁護士を選ぶ判断基準としては、

① 相談時間の中で、自分が話す時間をどれだけとってくれたか

② どれだけ自分が話しやすい雰囲気をつくり、誘導をしてくれたか

③ 相談終了の前に、自分の話した内容を前提としたアドバイスをしてくれたか

というのが重要なポイントになります。

 

ただ、ご相談される方も、自分の話を思いつくままに話していたのでは、せっかくのご相談の時間が無駄になってしまいます。

 

できるだけ、感情を抑えて、弁護士の質問や誘導に乗るように努力していただくと、より適切なアドバイスが出来ると思います。

 

これらを、まとめると、弁護士の法律相談においては、「雰囲気上手、話の引き出し上手」であることが最も大切だと思います。

 

弁護士は、立て板に水のように、なめらかに話が出来るという意味での「話し上手」である必要は全くありません。

 

むしろ、弁護士自身がそのような話し方をしていた場合、おそらく、ご相談者は「アドバイス」というより、「説教」「おしつけ」という印象を受けるのではないでしょうか。

 

そのような弁護士が「頼もしい」などと勘違いすることが無いことを祈ります。

 

そして、しっかりと話を整理しながら聞く時間をとってくれて、最後に的確なアドバイスをくれる弁護士に依頼するようにしていただければと思います。

 

「弁護士のお話」の過去ブログ記事についてはこちらをご参照ください。

弁護士ブログ村→にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ うれしい顔

カテゴリー: 弁護士の視点from静岡 |

反省させると犯罪者になります

というタイトルの本を、昨年読みました。

 

作者は、岡本茂樹氏。

 

現在、立命館大学産業社会学部教授の傍ら、実際に刑務所での常習的に犯罪を犯した人の社会復帰に関わっているそうです。

 

インタヴュー記事が↓にありますので、興味のある方はクリックをどうぞ。

http://kosodatemedia.com/archives/1034

この方の書いていることは本当なのでしょうか?

 

読んだ後、実践も含めて自分なりに検討してみました。

 

刑事事件というとその殆どが自白事件です。

 

警察に逮捕され、その後の20日間の勾留の間に多くの被疑者は、罪を認めてしまう(自白)んですね。

 

その方法の是非は置いておいて、では自白して罪を認めた被疑者に皆さんは何を求めますか?

 

おそらく、「再度犯罪を起こして、自分や社会に迷惑をかけないでもらいたい」というのが最も大きな思いなのではないでしょうか。

 

特に、凶悪な事件だったり、被害者が子供だったりすると、その思いはより強くなると思います。

 

そして、二度と犯罪を起こさせない手段とは何でしょうか?

 

それは、死刑か、更生か、の2択しかありません。

 

日本では、無期懲役といっても、仮釈放の可能性(最近は審査が厳しくなってきているとは聞いていますが)が残っています。

 

ですから、死刑という結論を下さない限り、判決を受けた被告人は、私たちと同じ社会に戻ってくるんですね。

 

そこで、自白事件については、「反省」ということに重きが置かれます。

 

犯罪を起こしたことを「反省」させないと、また同じことをやるという考え方です。

 

私も、この本を読むまでは、この被告人をどうやって更生させるのが良いだろうかと考える中で、「反省」という点に重点を置いていたことは事実です。

 

でも、この本では全く逆のことが書かれています。

 

つまり、受刑者と面談していると、一応は申し訳ないという気持ちはあるけれど、なぜその事件を起こしたとか、自分にどういう問題があったのかという事に、全然気づいていないということです。

 

ただただ表面上「すいませんでした。ごめんなさい。」という状態になっているだけとされています。

 

そして、受刑者に自分の抱えている問題を自覚させる方法として、ロールレタリングという方法をとっています。

 

これは、自分から被害者や自分の親族あての手紙を書かせた後、今度は被害者や自分の親族から自分への手紙を受刑者本人に書かせるということを繰り返していく方法だそうです。

 

これを何回も繰り返して、例えば自分が幼少期から抱えていた問題に気づかせるなどして、そこから被害者の心情を慮ることを始めるということです。

 

このように、犯行から裁判を経て刑務所へ入った受刑者には十分考える時間があるのに、本当の意味での「反省」をしていません。

 

それなら凶悪犯罪を犯しながら犯行直後や裁判ですぐに「反省」の弁を述べている被疑者・被告人はどうなのかという疑問がわいてきます。

 

つまり、犯行から裁判までの短い期間で、「反省の弁を述べた方が判決や社会の批判が軽くなる」と判断するだけのずる賢さがある被告人の方が再犯の可能性が高いということも考えられるのです。

 

そうすると、裁判で検察官から非難され、裁判官から説諭され、場合によっては弁護人からも叱責されて、「すみません。二度と犯しません。」と言っている被告人のどこまでが本心なのでしょうか。

 

皆さんも刑事事件の傍聴に行くと良く目にする光景ですが、被告人の味方のはずの弁護人が裁判官よりもずっと被告人に厳しく叱責する姿を見ることがあると思います。

 

これは、

表では、「裁判の場を借りて被告人に反省させ、二度と犯罪を犯させないようにしよう」という気持ち

裏では「検察官に非難される前に、先に同じことを言って叱って被告人に謝らせてしまえば反対尋問がやりにくくなる。」という法廷戦術的な意味

があります。

 

私も時折その手段を使っていたこともあります。

 

しかし、この本を読むと、被告人の刑を軽くするだけなら意味のある戦術ですが、社会の多くの方が望む「再犯をさせないこと」としては全く意味が無いやり方ということになります。

 

この本を読んでから、私も接見に行った時に、被疑者に犯行事実を確認する際に、

「反省してる?」

と聞いてみると、殆どの被疑者が

 

「反省しています」

と言います。

 

ところが、その後雑談をしてすこし雰囲気がくだけてきてから、例えば窃盗事件なら、

「でも、あのお店(被害店)も、それだけ簡単に盗めるというのも脇が甘いよね。」

などとわざと話を振ってみます。

 

すると

「そうなんすよ~だから、今まで100%成功してたのに、今回はミスっちゃって」

などと言い出すんですね。

 

つまり、最初に言った「反省しています」というのは、表面上だけのものだったという訳です。

 

ついでに、常習性があることまで教えてくれるのは「お前も十分脇が甘いよ」と突っ込みたくなりますが(笑)

 

ですから、この本を読んでから実践してみた約10件程度の私の刑事事件から振り返ると、やはりこの本に書いてあることは当たっているように思えます。

 

そこで、弁護人としては、この裁判までの短い時間に何をしたら良いかを考えました。

 

もちろん、窃盗のような財産的な被害が出ている犯罪については、それを金銭などで返すこと(被害弁償)は被害者のために優先的に必要です。

 

でも「反省」を急かす気持ちは全くなくなりました。

 

私の考えた方法は、親族や世間から非難されている被告人の味方であり、一生懸命弁護活動をしていることを被告人に実感させることです。

 

そして、ケースバイケースではありますが、法廷でも「甘い」のは承知の上で、被告人の良い情状面を一生懸命主張することが多くなりました。

 

その上で、判決後、必ず被告人の更生を助ける何等かの方法を考えるようになりました。

 

その方法は、被告人に判決後に、被告人に直接もう二度としないように言う場合もありますし、ホームレスには何か差し入れを入れてあげる(これも判決後でないと意味がないと思います)こともあります。

 

私なりに、この本を読んで、弁護人が関わる短期間で、被告人の心に届く言葉や行動な何だろうかと考えるようになりました。

 

今後、また色々な本を読んで、方針が変わるかもしれませんが、

「何をやったら一番良いのか、正解が無い」

というのが、この仕事の一番の面白さですので、死ぬまで考え続けたいと思っています。

 

刑事弁護についての基礎知識についてはこちらをご参照ください。 

弁護士ブログ村→にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ うれしい顔

カテゴリー: 刑事事件のお話 |

若い弁護士は避けた方が良い?

俳優の堺雅人氏が最近のインタビューに応えて、こんな話をしていました。

 

「注文がきたら、それをきっちり仕上げる“町の工務店”のような感覚でやっています。」

 

「反対に『僕はこういう俳優になりたいから、こういう役はやりたくありません』というのもありません。」

 

「まさに私の仕事感覚と同じだ」と、思わず膝を打ってしまいました。

 

まあ、私は堺雅人氏のような天才ではないので、その点は違いますが・・・

 

俳優と同じように弁護士だって、何の事件が来るかなんて予測できません

 

例えば、国選弁護人の担当日に、余りに被害者が可愛そうで、全然反省の色が見えない被疑者・被告人の担当になることだってあります。

 

まれに弁護士によっては、そういう事件の配点を拒否する人もいるようです(基本、選任に応ずるかは自由なので、全く違法ではありません。)。

 

でも、私は、担当日には、事件の種類を選ばずに選任に応ずることにしています。

 

別に私は世間的に見て「正義の弁護士」と言われたいこともありませんし、大変な事件を時折やることは、自分の成長につながります。

 

しっかりした「町の工務店」のように、弁護士としての仕事をコツコツやるだけです。

 

これについて、話すと長くなりすぎてしまいますので、詳しい考えはまたの機会ということで。

 

さて、弁護士選びをするときに、「若い弁護士は避けた方が良い」という迷言があります。

 

仮に、ホームページに、細かい分析も無く、このようなことを書いている弁護士がいたら、むしろ、その弁護士を避けた方が良いです。

 

多分、そういう弁護士は、弁護士経験を相当年数積んだ中堅やベテランが多いのではないかと思います。

 

最近、司法改革で、司法試験が昔ほど難しくなくなったので、弁護士が大量に増えています。

 

もちろん、増えているのは若い弁護士です。

 

そのような若手弁護士に仕事を取られないかと恐れていることから、そのような宣伝方法をとるんですね。

 

確かに、弁護士に経験は必要です。

 

事件の読みをするには、一通りの最後までの手続を経験していないと出来ないからです。

 

ですから、さすがに「弁護士1年目ですが、何でも出来ます」と言われると、首をひねりたくはなります(過払金の請求のように素人でも簡単にできる事件であれば分かりますが)。

 

ただ、他の仕事もそうだと思いますが、3年くらい死にものぐるいで仕事に取り組むと仕事の全体像が見えてくるというのは、社会人の皆様なら経験があるのではないでしょうか?

 

では、3年死にものぐるいで仕事に取り組んできた人柄の良い新人と、上司へのご機嫌伺いで課長になった経験20年のベテランと、皆様が仕事を頼む場合どちらを選ぶでしょう?

 

それと似たことが弁護士にも言えるんですね。

 

もちろん、例えば20年間以上も誠実に仕事に取り組んできた弁護士も数多くいますので、そのようなベテラン弁護士には、新人弁護士は全く敵わないでしょうが・・・

 

もっとも、それだけの仕事をしてきた弁護士は、放っておいても依頼者の行列ができますから、新人弁護士をおとしめるような宣伝をする必要は全く無いんですね。

 

実は私も、医師選びで同じような失敗をしたことがあります。

 

昔、私の舌に腫瘍ができて、手術をせざるを得なくなった時に、大きな間違いをしました。

 

色々なHPを観て、年齢的に中堅で、東大・京大クラスの大学を卒業しており、様々な立派な肩書きを持ち、その病院でも部長クラスの医師を選びました。

 

その医師の見立てでは、「白板症」という病気で、放っておくと10%の確率でガンになるということでした。

 

私も舌を切るなんて嫌でしたが、それを言われては切らざるを得ません。

 

局部麻酔で手術をしました。

 

ところが、どうしたことでしょう!

 

私の手術中に、若い看護師に

 

「この器具、新しいよね。どうやって使うんだっけ?」

 

全て看護師にセットしてもらっているではありませんか。

 

極めつけは、術後の説明。

 

「ガンではなかった。もう悪い物はとったから大丈夫」

 

私も不信感を持っていましたから、

「白板症だったんですよね?」

と確認しました。

 

そうすると、言いにくそうに、

「いや、ただのおできみたいなもので・・・」

と言うではありませんか。

 

私も更に、素人でも理解をしようと、

「それでは、例えば、私の唇の下に子供の頃からイボがありますが、そのような類いのものですか?」

と聞いたところ「まあ、おできのようなものです。」という回答。

 

それじゃ、そもそも切る必要がなかったのでは?

 

術後に舌が痛くて、「しゃべれない、食べられない、眠れない」という私の苦痛は、いらない苦痛だったのでは?

 

と問い詰めたくなりましたが、切った後のまつりです。

 

言っても意味はないと思ってあきらめました。

 

「医師も弁護士と同じで、高学歴で立派な肩書きを持っている中堅でも、いたずらに馬齢を重ねた無能な人がいるんだな」

 

と勉強になりました。

 

こんなこと書いたら、皆さんも、どの医師や弁護士を選んだら良いか分からなくなりますよね(笑)

 

すみません。

 

信用できる人の口コミとご自分との相性が一番ということでしょうか。

 

くれぐれも、ホームページに書いてある「根拠の無い決めつけ」や「立派な肩書」や「学歴」に騙されないようにしてください。

 

「弁護士のお話」の過去ブログ記事についてはこちらをご参照ください。

弁護士ブログ村→にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ うれしい顔

カテゴリー: 弁護士の視点from静岡 |

DNA型鑑定で親子関係を否定できる?~最近の最高裁判決(後半)

大学の講義の準備のために、「検察官の役割を学生に分かりやすく説明できるかな」と思い、先週、木村拓哉主演の「HERO」を見てみました。

結論としては、「全く使えない・・・」です。

親告罪の被害者に、告訴の取消状の提出も確認せずに、気前よく200万円も示談金を支払う「敏腕」弁護士。

相手弁護士の「これはディベートでしょう」との言葉にカチンときて腹を立て、

 

強制わいせつ罪(チカン・自白事件)の証拠確保のために、所轄の警察官を総動員して街中の防犯ビデオの大規模な洗い直しを命ずる検察官。

 

せっかく、検察官の仕事の難しさ、厳しさ、それを乗り越えて初めて分かる面白さを感覚的にでも学生に伝えたかったのに残念です。

ひょっとしたら、弁護士以上に、検察官の方がドラマを見て「あり得ない!」と言っているかもしれませんね。

さて、前回のお話の続きです。

最高裁第1小法廷の5人の裁判官の前職と本判決に対する判断は、以下のとおりでした。

・白木裁判長~裁判官出身          → 東京高裁は○・本判決は×

 

・金築裁判官~裁判官出身          → 東京高裁は○・本判決は×

 

・櫻井裁判官~労働省(現厚生労働省)出身 → 東京高裁は×・本判決は○

 

・横田裁判官~検察官出身          → 東京高裁は×・本判決は○

 

・山浦裁判官~弁護士出身          → 東京高裁は×・本判決は○

 

あれ?

 

裁判官経験がある裁判官は全て、実の父親と子の父子関係を認めるべきだとしていますね。

反対に、裁判官経験の無い3人全員は、今回の最高裁判決に賛成しています。

そうすると「裁判官は四角四面」という批判はあたらなそうです

 

これはどうしてなのでしょうか?

 

ここで全国のお父さんたちにお聞きします。

 

結婚している最中に妻から生まれた子どもと自分との間に、血のつながりがあるか確認するためにDNA型鑑定をされたお父さんはいますか?

 

少なくとも、9割以上のお父さんは「・・・普通しないでしょ。」というご回答なのではないでしょうか。

 

私も、それが常識的なことだと思いますし、それを定めたのが、まさに民法の「嫡出推定(ちゃくしゅつ・すいてい)」という規定なんです。

 

ですから、大まかな言い方ですが、結婚中に生まれた子は、父親の子と推定され、簡単には、ひっくり返せないようになっているんです。

 

でも、よくよく考えると、真実の父子関係を、神様以外に知っている人がいるとすれば、それは母親のみなんですね・・・

 

そうすると、お父さんがいくらがんばって何年も子育てをしてきて

 

「今、何を言われようと、生みの親より育ての親だ!」

 

と言う自信があったとします。

 

ても、東京高裁の理屈だと10万円もしないDNA型鑑定で、誰でも、お父さんと子どもが積み上げてきた親子関係をひっくり返すことができることになります。

 

そう考えると、東京高裁の判決にも問題がありそうです。

 

今まで、夫婦間の間の子でも、父子関係が否定された例は、

 

①長期の海外渡航や夫が刑務所に入っているなどで、父の子が生まれようが無いケース

 

②既に夫婦関係が破綻して別居していて交流が全くない間に子が生まれたケース

 

などです。

 

これなら、父親の方でも「俺の子じゃないな・・・」とほぼ分かっていますから問題ありません。

 

でも、この理屈をDNA型の鑑定のケースにまで広げてしまうと、父親にとっては恐ろしい世界が来そうです。

 

私は、最高裁の裁判官の意見が分かれたのは以下の理由なのではないかと推測しています。

 

① 裁判所の最も大切な役割である個別の事件についての妥当な解決を考慮した裁判官と

 

② 最高裁判例の国民生活に及ぼす重みを考慮した法律関係実務家

 

の感覚の違いなのではないかと思います。

 

つまり、裁判官出身者は、「この事件を最も妥当に解決するには、法解釈をどのようにすべきか」を重視して、東京高裁と同じ判断をしたのだと思います。

 

そして、もし、この判決が当てはまらないような事案であれば、また最高裁まで争って変更することも可能だということも考えたのだと思います。

 

反対に、弁護士を含め、検察官や行政実務家は、最高裁の判決が出た後の法律実務と私たち国民に及ぼす影響を痛いほど知っています。

 

一旦、最高裁の判決が出ようものなら、法律実務家は、法律改正と同じ感覚で常にそれを引用してくることになります。

 

例えば、最近では、「払いすぎた利息を返還すべき(過払金請求)」という最高裁の判決が出ました。

 

その影響で、たった2~3年で、日本全国の小さな消費者金融会社が軒並み潰れて、武富士・アイフル・クレディアなど大手の会社までが、倒産状態に追い込まれています。

 

「過払金ビジネス」という言葉まで、実務家の間では言われていました。

 

 

そして、「最高裁まで争って判例変更する」と言っても、それには膨大な時間・お金・エネルギーが必要です。

 

そうなる前に、あきらめて泣く人が何人いるか分かりません。

 

そう考えると、私は、今回の問題は、単に法解釈をいじって解決してしまうことは賛成できません。

 

また、Cさん(子)の親権者はB(元妻)さんなのですから、Cさん(子)とDさん(実の父)とを養子縁組させて、共同親権をとることもできます。

 

最高裁の判決でAさん(元夫)の父親の地位が認められたとしても、Aさん(元夫)は、決してCさん(子)を連れ戻すことはできないのです。

 

Aさん(元夫)のできることと言えば、せいぜい、多くて月に1回程度、Cさん(子)と面会ができる程度です。

 

これに対して、Dさん(実の父)としては、Cさん(子)が社会人になるか成人した折に、自らDNA型鑑定の結果を見せて

 

「最高裁まで争ったけど、戸籍上は養子にされてしまった。でも、間違い無く、お前は俺の実の子だ。」

 

と説明するという方法もあります。

 

まあ、

Bさん(元妻)とDさん(実の父)が、Aさん(元夫)の単身赴任中に隠れて不貞行為を行っていたことや、

 

Cさん(子)が生まれてからも1年以上もAさん(元夫)に、Aさんの実子ではない可能性を隠して養育させていたこと

 

を考えると、それくらいの負担を負わせても良さそうにも思えます。

 

可愛そうなのは、親の都合で振り回される子供Cさんですね。

 

結局は、

 

① DNA型鑑定の裁判における取り扱い

 

② 嫡出推定という制度の見直し

 

③ 親子関係について複数の訴えの形式が法律で定められていることの整理

 

など民法全般の改正を検討していくべきで、解釈で解決を図る問題ではないと思います。

 

その意味で、私は、今回の最高裁の判断に同感しています。

カテゴリー: 親族間のトラブル対策 |

DNA型鑑定で親子関係を否定できる?~最近の最高裁判決(前半)

何年か前から、アメリカのTVドラマ「メンタリスト」にはまっています。

 

心理描写と主役のサイモン・ベイカーの演技が絶妙で、ついニヤッとしてしまいます。

 

日本では、2010年の5月からスカパーで見ることができていますが、やはり字幕が良いとなるとDVDですね。

 

もっとも、アメリカ法でも証拠としての能力が無くなるような違法捜査を行っている時には、ついつい「そこで止めとけば・・・」とつっこみを入れています。

 

 

さて、最近、最高裁で、実の父親か、結婚時の父親か」が争われた事件がありましたね。

 

最高裁が、DNA型鑑定で、99.99%実の父親とされたのに、それを認めなかったという判決です。

 

TVや新聞・ネットでも話題になっていました。

 

色々と議論がされていますが、私は自分自身の視点から、この判決を分析させてもらおうと思います。

 

この裁判の前提事実はこうです。

 

Aさん(夫)は、Bさん(妻)と平成16年に結婚しました。

 

Aさん(夫)は、平成19年から単身赴任をしていましたが,単身赴任中もBさん(妻)のいる自宅に月に2,3回程度帰っていました。

 

ところが、Bさん(妻)は、平成19年にDさんと知り合い(単身赴任直後ですね。),Dさんと親密に交際するようになりました。

 

でも、Bさん(妻)は,不倫の傍ら、A(夫)さんと共に旅行をするなどして、A(夫)さんとBさん(妻)は夫婦として普通に生活していました。

 

Aさん(夫)は、平成20年に、Bさん(妻)から妊娠しているとの報告を受け、Bさん(妻)は平成21年には、Cさん(子)を生みました。

当然、自分の子だと信じたAさん(夫)は、Cさん(子)の通う保育園の行事に参加するなどして、Cさん(子)を自分の子としてしっかり育てていました。

ところが、平成23年になって、Aさん(夫)は、Bさん(妻)とDさんとの不貞行為を知ってしまったんですね。

当然、夫婦仲は悪くなり、Bさん(妻)は,その年中に、1才と数ヶ月になるC(子)さんを連れて自宅を出て、A(夫)さんと別居しました。

 

更に、Bさん(妻)は、その年中にCさん(子)と、Dさんとその連れ子と同居するようになりました。

Cさん(子)が、Aさんの所を離れたのがまだ1才数ヶ月だったため、まだ幼いCさん(子)は、血のつながりのあるDさんを「お父さん」と呼んで、特に問題なく順調に成長しています。

そして、Dさん側で、平成23年に私的に行ったDNA検査の結果によれば,DさんがCさん(子)の生物学上の父である確率は99.99%であるとされていました。

 

そこで、東京高裁では、次のようにAさん(元夫)とCさん(子)との親子関係を否定しました。 

 

本件においては、上記のDNA検査の結果によれば、AさんがCさん(子)の生物学上の子でないことは明白です。

 

また、現在,Cさん(子)は、BさんとDさんに育てられ,順調に成長しています。 

 

とすれば、Cさん(子)が、AさんとBさんの結婚中に生まれた子だとしても、Aさんが父親であるとの推定(嫡出推定=ちゃくしゅつ・すいてい)が及ばない特段の事情があるものと見るべきだということです。

 

確かに、子どもの今後の生活を考えたら、実の父母と一緒に問題無く暮らしている以上、東京高裁の判決の方がもっとものように思えます。

 

そうすると、逆の結論を出した最高裁の判決については「裁判官ってやっぱり法律を四角四面に適用する」という批判をしたくなります。

 

実際に、この最高裁の判決を問題視するような報道も見ました。

 

でも、最高裁の裁判官って、全てが裁判官としての実務を積んできた裁判官ではないんですね。

 

今回の最高裁の第1小法廷でも5人の裁判官のうち、裁判官経験があるのは2人だけで、残りの3人は、元は裁判官ではありません

では、それぞれの裁判官は、東京高裁の判決に対して、どのような判断をしたのでしょうか?

 

次回、この視点から広げて考えていきたいと思います。

カテゴリー: 親族間のトラブル対策 |

弁護士の仕事はビジネスか?

昨日は、睡眠時間を削って仕事を早めにすませて、夕方から焼津市民文化会館まで「山崎まさよし」のコンサートへ行ってきました。

 

前半は、心地よいアコースティックサウンドで、爆睡してしまったのですが、「セロリ」を歌った時の周囲のみんなの歓声で目が覚めました。

 

おかげで、後半はばっちり音楽を楽しむことができました。

 

ギター・ドラム・ベースのトリオのみというシンプルな構成で、コーラスも無く、それがかえって音楽に入り込みやすい感じで良かったです。

 

「One more time,One more chance」は、やはり良い曲だと感じました。 

 

さて、今回は、弁護士が、仕事をどれだけビジネスと割り切れるかということです。

 

これは、「良い、悪い」というより、皆さんがどのタイプの弁護士に依頼したいかの問題です。

 

弁護士という仕事は、私にとってはボランティアでは無いですが、純粋にビジネスと言えるかというと、これも違うのではないかと思います。

 

私だけの感覚かもしれませんが、「ボランティアでやっている」と思ってしまうと、その努力も中途半端なものになってしまいそうな気がします。

 

もし、「困った人だから・・・」と無料でやってあげたり、着手金の分割払が遅れてご連絡もいただけないような場合には、弁護士のほとんどは常に多忙なのですから、他の仕事との関係で後回しにするでしょう。

 

でも、例えば、日々の生活にも困っている人が、毎日の食事を1回減らして貯めたお金を、弁護士費用の分割払として持ってきてくれたら、すごいプレッシャーです。

 

そのような貴重なお金をもらったら、睡眠時間を削ってでもすぐにやるでしょう。

 

もちろん、正当な弁護士費用を一括で支払っていただいた誠実な方についても、同じプレッシャ-を感じます。

 

そういう意味では、弁護士という仕事を「ボランティア」という気持ちでやることには、私はあまり賛成できません。

 

では、かといって、完全なビジネスと考えるというのもちょっと違うというのが私の発想です。

 

というのは、ビジネスで成功して大金を儲けたければ、別に、人生をかけてあんな危険な試験(司法試験)に挑戦した上で、経済効率の悪い弁護士なんて仕事に就く必要がないと思うからです。

 

試験のために半分頭がおかしくなるような努力をするくらいなら、自己分析して、自分に合ったビジネスモデルを構築して、従業員を雇って規模を拡大していった方が儲かる確率は高いと思います。

 

実は、私も、仮に交通事故など、不意の事態で弁護士資格を失った場合に、食っていくために準備しているビジネスモデルは、一応あります。

 

でも、弁護士資格をいただいているうちは、絶対にそちらのビジネスをやるつもりはありません。

 

なぜかというと、弁護士の仕事が単純に「今まで経験した多数のアルバイトや仕事の中で、自分が最も面白いと感じた」からです。

 

一番気に入っている所は、肩書きに支えられているという前提ではありますが、「自由度が高い」ところなんだと思います。

 

確かに、弁護士の仕事は、サラリーマンと比べて、毎月給与が入ってくるという安定性や、仕事と私生活を分離して、ワークライフバランスをとりやすいという点では確実に劣ります。

 

でも、日弁連・弁護士会から「弁護士」という肩書きをいただくことで、

本来なら鼻も引っかけてもらえない相手と直接交渉ができたり、

相手がどんな巨大でも、臆せずにたった1人で戦えたり、

刑事事件という特殊な世界を経験できたり、

私にとって自分を成長させる材料がこんなに豊富な仕事は無いと思っています。

 

ですから、私は、決してボランティアなどではなく、ビジネスとして弁護士という仕事をしていますが、その中には「自分が勝手に好きでやっている」という趣味的な要素が入っていることは否定できません。

 

私にとっての弁護士の仕事の代え難い魅力は、

「自分の判断で動ける範囲が極めて広い」

「その結果、依頼者にご満足いただければ、(組織ではなく)私自身に対して感謝をしてもらえる。」

「その上、アンテナを敏感にしていれば、専門家として、人間として、成長できる材料がゴロゴロしている」

という点でしょうか。

 

でも、これは私だけの弁護士の仕事に対するバランスで、おそらく、弁護士1人1人が微妙に異なる価値観・バランスで活動しているのではないかと思います。

 

以前チェックリストで

・法律相談の時間が30分5,000円の場合、30分や1時間という切り  の良い時間になると、弁護士が急に話しをまとめて終わらせ始めた。

・法律相談の時、弁護士が、何の説明も無く、腕時計や壁の時計をやたら気にしていた。

というのは、弁護士の仕事の時間単価をきっちりと計算して、普通のビジネスに近い感覚で、弁護士という仕事に取り組んでいるケースです。

 

でも、それが悪いという訳ではありません。

 

もし、このようなタイプの弁護士に相談した場合、着手金を安くしてもらって、逆に成功報酬の方を相場よりも多額にする契約をすれば、とても頑張って仕事をして、成果をあげてくれると思います。

 

ですから、弁護士に依頼する時に「できるだけ良い買い物をしたい」というご希望であれば、上のタイプの弁護士に、上手に料金設定をした上で、依頼すると良いと思います。

 

依頼される方の判断資料にしていだければ幸いです。

 

「弁護士のお話」の過去ブログ記事についてはこちらをご参照ください。 

弁護士ブログ村→にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ うれしい顔

カテゴリー: 弁護士の視点from静岡 |

動物好きに悪い人はいない?

今回は、どうでも良い私の想いで話を少し。

 

良く

「犬好きに悪い人はいない」

とか

「猫好きに悪い人はいない」

とか、本やブログで書いてあるのを見かけます。

 

でも、刑事事件を扱っていると、警察の留置所に入っている被疑者に、飼っている犬や猫の世話の手配を頼まれることも弁護士なら良く経験することです。

 

室内で大型犬に寄り添いながら、注射器で覚醒剤を打っている人なんか、私たちの業界(法曹界)では別に珍しくもないんですね。

 

一応、それらの被疑者は有罪の確定判決を受けているので、世間一般で言う「良い人」の中には入らないでしょう(そのような分類自体、私はしていませんが・・・)。

 

ということは、「動物好きに悪い人はいない」という言葉には、余り意味が無いように思えます。

 

それを前提に言いますが、私は動物が大好きです・・・

 

あのフカフカした鳥の柔らかい羽や犬や猫の毛を見ると「お前(可愛すぎて)反則だろう~」といいながら、つい、なでたり、頬ずりしてしまったりします。

 

今は、犬も猫も一緒に暮らしていますが、そこに至るまでは苦難の道でした。

 

子供の頃から、動物が大好きだったので、親に犬を飼いたい、猫を飼いたいなどとうるさく言っていました。

 

しかし、子育てをしながら共働きで住宅ローンの返済に追われていた親は、動物を飼う余裕など無いと考えているようでした。

 

小学生の私が言う「絶対に自分で世話をするから」という言葉(世の中で最も信用できない言葉の一つ)を、両親とも当然ながら、まるっきり信じてくれませんでした。

 

それでも、小学生ながらお年玉などお小遣いをためて、小鳥と鳥かごを買える程度のお金を貯めた私は、勝手に小鳥2羽を買ってくるという暴挙にでました。

 

「鳴き声でばれたらヤバい」と思った私は、当時売れ筋だったセキセイインコ(キレイな良く通る声で鳴きます)ではなく、すこし地味目の文鳥(ぶんちょう)を選びました。

 

しばらくは、自分の部屋の押し入れに隠して飼っていましたが、そこは小学生の浅知恵、母親が部屋の掃除を勝手にするのを予測できず、結局1週間くらいでバレてしまいました。

 

相当怒られた上、「鳥かごごと川に流す」(笑)と脅迫までされました。

 

そこで、文鳥を買う前に学校や市の図書館で本を借りまくって、「文鳥博士」となっていた私は、両親に対して、

 

「鳥なら、トイレのしつけも、散歩もいらなくて、水と餌を、朝晩にあげるだけで良い。それなら自分の生活で十分できる。」

 

「エサ代も粟(あわ)を大きな袋で買ってくれば、自分の小遣いで育てられる。」

 

「子供部屋にずっとおいておけば、匂いや汚れも他の部屋に行くことはないし、そもそも、文鳥は、ほとんど匂わない」

 

と、図書館から借りてきた「文鳥の飼い方」という本を見せながら親に説明しました。

 

既に買ってきてしまった生き物を店に返すわけにもいかず、かといって捨ててしまったのでは寝ざめが悪いですよね。

 

両親とも最後はあきらめて

 

「本当に世話をしなかったら、公園に置いてくるからね。」

 

と念を押されて、文鳥を何とか飼うことになりました。

 

朝と夕に、水とエサを、しっかりとやるという約束は守りましたが、鳥を鳥かごから出さないという暗黙の了解はすぐに破りました。

 

小鳥もまだ飛べない頃から、口に小さなスプーンでエサを入れてあげて育てると、育ての親を慕って、犬のようになつきます。

 

この時に飼った文鳥もとても、とても良くなついてくれて、鳥かごから出すと、私の肩にとまって、ほっぺたを軽くつついてじゃれたり、膝や肩の上で寝たりしていました。

 

トイレに行きたくなると、しっかりと鳥籠に戻って用を足してから、また戻ってくるという賢さでした。

 

1度、開けていた窓から飛んで出て行ってしまったこともあったのですが、数時間後には何食わぬ顔で戻ってきて餌を食べていたのを今でも覚えています。

 

確か、7~8年間だったと思いますが、とても楽しい時間を文鳥と過ごさせてもらいました。

 

その経験に味を占めて、文鳥がこの世を去った後、今度は、捨てられた子猫をこっそり拾ってくるという暴挙に出るのでした・・・

 

私は、比較的おとなしい子供だったのですが、自分がこうだと決めると、誰の言うことも聞かず、自分で決めて行動するという性格で、それは今でも変わっていないように思えます。

 

「三つ子の魂100までも」とは良く言ったものです。

 

そんな私につきあわされた両親は大変に「お気の毒」だったと今になって思います。

 

もっとも、昭和のその時代は、今よりも学歴信仰が強く、親は子供に「勉強しろ」と強く言うわりには、今の親ように子供の性格で悩むというような雰囲気は余りありませんでした。

 

その時代では、どこの家庭でもあることで、実は、両親とも悩んではいなかったのだと勝手に解釈しています。

 

「ご報告や雑感」のブログ過去記事についてはこちらへどうぞ。

にほんブログ村 士業ブログ 弁護士へ           にほんブログ村 地域生活(街) 中部ブログ 静岡(市)情報へ
にほんブログ村

カテゴリー: ご報告や雑感 |