今月の18日で、京都アニメーション放火殺人事件が1年を迎えました。
事件現場で追悼式が行われたとのことです(7月18日・朝日新聞デジタル)。
犠牲者の方々やご遺族には慎んでお悔やみ申し上げます。
「聲の形」というマンガ(作者:大今良時さん)に感銘を覚えていたので、京都アニメーション(京アニ)で映画化されたときには、映画館へ行きました。
原作はマンガという紙を通して表現し、映画はアニメーション・台詞・音楽という形で表現するという大きな違いがありますよね。
でも、私の心の中に生じた感動は、まったく同種のものでした。
京アニの方々が、原作を深く読み込んで解釈し、それをどう表現するかを、努力と才能をフルに使って製作したことが伝わってきました。
さて、この京アニの事件、刑法の犯罪類型で言うと「現住建造物放火」と「殺人」の疑いで捜査されています。
まず、放火罪は、大きく次の3つに分けることができます。
① 現住建造物等放火罪
② 非現住建造物等放火罪
③ 建造物等以外放火罪
このうち、①の「現住建造物」とは、「現に人が住居に使用し」ている建物や「現に人がいる建物」を言います。
そのため、①は人の生命身体に大きな危険を及ぼす行為であるため、ほかの②③と比べて非常に重い刑が定められています。
①が「死刑、無期懲役、5年以上の有期懲役」のいずれかなのに対し、②は「2年以上の有期懲役」、③は「1年以上10年以下の有期懲役」です。
このように「死刑」「無期懲役」が定められているのは①だけです。
今回の事件で放火されたのは、仕事をする建物ですから「住居」ではありません。
しかし、多くの人が建物の中に居たので「現に人がいる建物」として、重い①の現住建造物放火罪が適用されるのです。
①の「現住建造物等放火罪」だけでも死刑まで定められていますが、更にこれに加えて「殺人罪」も一緒に容疑に入っています。
この最も大きな理由は、犯罪の実態にあった事実を認定して、適切な量刑を判断するためでしょう。
ここで問題になりそうなのは、殺人の故意、つまり殺意です。
殺意は、「自分の行為によって人が死亡することの認識」だけでなく、「人が死んでもかまわない」という積極的な意思も必要です。
人がいる建物に放火をする場合、それ自体が危険な行為ですから、「人が死亡することの認識」は常識的に否定できないでしょう。
ただ、「建物に火をつけたけれど、建物の中の人は十分逃げられると思っていた」という場合、人が死んでもかまわないとまでは思っていません。
この場合、被疑者の心中は神様でなければ分かりませんので、客観的な証拠から殺意の有無を判断していくことになります。
例えば、平屋建ての建物に新聞紙で火をつけたけれど、その建物は外に出られる裏口や窓がいくつかあったとします。
この場合は、どうでしょう?
実は、これだけでは殺意は不明です。
大事な要素がいくつも抜けているからです。
例えば、火をつけた時間、放火の方法などです。
もし、家の中にいるのが高齢者で朝5時に起きて、夜9時には寝ているとしましょう。
そのことを被疑者が知っていて、昼の12時に火をつけた場合には殺意を否定する方向で考えます。
ただ、その場合でも、家の周囲にくまなくガソリンをまいて火をつければ、有毒ガスや酸欠で動けなくなって死亡する危険が高いので、やはり殺意は認められる方向になります。
これを京アニの事件でみると、被疑者は、3階建て(写真から見る限り)の建物の1階に大量のガソリンをまいています。
ガソリンの火のまわりの早さや、有毒ガスが2階、3階に上がっていくことからは殺意が認められる可能性は高いように思えます。
ただ、これらの事実は、新聞などで報道されていることなので、実際には裁判になったときに被疑者が認めるか否定するかを前提に考えていかなければなりません。
被疑者は、重度の火傷で死亡寸前だったところを、医療スタッフの懸命な治療で一命をとりとめたと報道されています。
また、被疑者は、治療への驚きと感謝を述べるとともに、医療スタッフからの「罪に向き合うべき」との言葉には耳を傾けているようです。
一方的に死なれてしまうよりも、被告人が罪と向き合って真摯な態度をとることが、遺族のため、そして模倣犯を今後出さないために大切なのでしょう。
刑事弁護についての基礎知識についてはこちらをご参照ください。