暑くなってきましたね。
静岡では6月6日に梅雨入りしたと報道されていますが、雨よりも晴れの日の方が多いので実感がありません。
ひとまずは、暑くなっても、雨でも、「スギ花粉がないだけで快適だな」と思うようにしています。
さて、マンガやアニメで有名な名探偵コナンで
「真実はいつもひとつ」
という決めゼリフがありますよね。
では、人が事件を扱う場合に真実とウソに分けて考えられるのでしょうか。
私は、真実とウソの間に広いグレーゾーンがあると思っています。
裁判手続で考えてみましょう。
裁判所が認定する事実が、(仮に神様がいるとして)神様が見た事実と一致するのであれば、真実は一つと言えるでしょう。
しかし、裁判とは、人が人を裁くという性質のものです。
そして、裁判手続では明白な証拠は少なく、判決を下す多くの場合には法廷で当事者や証人の話を代理人弁護士や裁判官が聞く機会(尋問手続)を設けます。
神様から見た真実を人が追求する場合には、証人には真実を話してもらわなければなりません。
でも、この尋問手続きで、多くの裁判官は、当事者や証人に対して
「真実を話して下さい」
とは言いません。
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「記憶に従って、正確に話して下さい」
と言う場合が多いのです。
どうしてでしょうか?
これを、証人が法廷で話すことを材料に考えていきましょう。
証人が事件に関わってから証言するまでには、以下の過程をたどります。
① 見たり聴いたりする
↓
② それを記憶して証言の時まで保持する
↓
③ 保持した記憶から法廷で言葉で再現する
法廷で意図的にウソをつく人は、この③の所で、記憶と異なる証言をしているということです。
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そのため、「ウソをつかないように」という警告は、「記憶に従って正確に」という言葉になるのです。
しかし、真実と違うことを法廷で話してしまうのは、意図的にウソをつく場合に限りません。
まず、①の段階で見間違い、聞き間違いがありえます。
その結果、結果的に法廷で事実と異なることを話してしまうことがあります。
次に、②の段階で記憶が薄れたり、自分の価値観やものの見方により記憶が偏ることが誰にでもあります。
そうなると、当然法廷で証言するときには、本人も意識せずに事件当時に現実に見たことや聞いたこととはずいぶん内容が異なることを話すことになります。
更には、自分が記憶したことを、相手の質問や聞きたいことを考慮して、上手に言葉にできる人と苦手な人がありますよね。
また、緊張すると、記憶していたこととズレたことを話してしまうことも珍しくありません。
つまり、③を適切に行えない場合です。
ここの部分は、代理人弁護士が、裁判で実際に苦労するところです。
事件を引き受けた数年前から一貫して同じことを強く言い続けていて、代理人としても真実だろうと思っていたことを、不利益にもとられかねない微妙なニュアンスで法廷で話してしまうことがあります。
もし真実と違うことを言ったら、神様が怒る「真実の口」※のようなシステムがあれば、間違いはおきにくいのかもしれません。
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※ローマにある石の彫刻。偽りの心で口に手を入れると噛みきられるなどの伝説がある。
でも、見間違い、記憶違い、説明下手、緊張が理由で真実と異なることを話してしまっても手を噛みきられてしまうのでは、誰も証言したくないですよね。
事件を人が扱う以上、
「人が認識できる真実はひとつとは限らない」
という方が正確かもしれないと思っています。