少し前に「頭に来てもアホとは戦うな!」という本(著者:田村耕太郎氏、出版社:朝日新聞出版)を読みました。
タイトルから見ると、「アホな人とは戦うだけ損だからスルーした方が良い」と書いてあるように見えますよね。
しかし、著者が言いたいのは、むしろ「戦っている自分が『アホ』なのでは?」という趣旨に読めました。
武道で言うと、成功者は空手ではなく合気道。
相手の力をうまく利用して、結果オーライで勝ちを手にするという趣旨です。
「相手の攻撃やいじめにやられているフリをすればいい。」
「本当に自分のやりたいことにフォーカスすれば、アホにでも頭は下げられる。」
ということです。
理屈では分かりますが、なかなか難しいですよね(笑)
弁護士の仕事も計算して頭を下げたり、逆に計算して攻撃的に出たりするのは皆あるのでしょうが、常に紛争の中に身を置いているだけに、感情をコントロールするのは難しいとは思います。
また、計算してばかりだと、空々しい態度が身についてしまって、周囲に信用されなくなるという点もあります。
感情をコントロールする必要は当然ながらありますが、目的達成の計算だけでなく「人としてどうか」という面は捨てたくないと、つい思ってしまいます。
そういう意味では、私も「アホ」なのだろうなと思いました。
さて、今年の3月1日に出た最高裁判所の判決で話題になったものを覚えていますか?
「認知症の高齢者の監督責任は誰が、どこまで負うのか?」という問題についての判断です。
この事案では、愛知県内の鉄道の駅構内の踏切事故で、認知症の高齢者の男性(仮に「Aさん」とします)が列車に衝突して死亡したという事案です。
この事故で列車に遅れが生ずるなどとして、鉄道会社が、Aさんの妻Bさんと、Aさんの長男Cさんに損害賠償請求訴訟を起こしたものです。
この問題でのポイントは次の3つです。
① 認知症の高齢者の子供に監督責任があるか?
② 認知症の高齢者と同居する配偶者に監督責任があるか?
③ どのような場合に監督者としての責任を負うのか?その基準は?
まず、前提として認知症のAさんは、自分の法的な責任を常識的にも判断できないような認知症だったので、法的な責任を一切負いません。
そのため、相続人である配偶者や子供もAさんの損害賠償債務を相続するという関係にはなりません。
そのような場合に、被害者の救済のために民法では、責任無能力者(本件では認知症のAさん)を監督する法定の義務を負う者に損害賠償責任を負わせています。
今回は、その「監督する法定の義務を負う者」とは誰なのかが争われました。
まず、Aさんの子であるCさんは、親を扶養する義務はあるものの成年後見人という特別の地位にはありませんでした。
そして、最高裁はたとえ成年後見人であっても生活の手助けや配慮をする身上配慮義務はあるものの、監督をする責任までは無いのだから、Cさんがただ子供というだけでは「監督する法定の義務を負う者」にはあたらないとしました。
さらには、同居する妻であっても、夫婦間の義務は、相互に配偶者に対して同居したり助け合ったりする義務であって、Bさんは第三者(本件ではJR東海)に対してまで配偶者を「監督する法定の義務を負う者」ではないとしました。
もっとも、「監督する法定の義務を負う者」でなくても、それに準ずべき者として責任を負う場合はあるとしています。
では、BさんやCさんは、これにあたるのでしょうか?
最高裁は、判断基準として、実情を総合考慮して、その者に責任を問うのが相当といえる客観的状況が認められるか否かにより判断すべきと示しています。
そして、本件では、被告となった長男のCさんではなく、妹の
「父を特別養護老人ホームへ入れると頭の中での混乱がよりひどくなる。」
「父は家族の見守りがあれば自宅で過ごす能力を十分に持っている。」
という言葉で、Aさんの自宅での見守りを選択したものです。
しかも、被告となった長男Cさんは、事故当時父母の住む愛知県ではなく、横浜市に居住しています。
そして、Cさんは仕事の関係上愛知県で介護できないので、妻に父Aの近くに住んでもらって介護を援助してもらっています。
Cさん自身は事故当時は、愛知県には1か月に3回程度通っていました。
これ以上の事をCさんに求めるのは酷でしょう。
また、妻のBさんも高齢だったため、両足に麻痺があって要介護1の認定を受けていました。
そんなBさんが、少しまどろんでしまった隙に、Aさんが家を出て行って事故にあったという事情もあります。
これらを考慮しつつ、Bさんも、Cさんも「法定監督義務者に準ずる者」にもあたらないとしました。
これらの一連の事情を見ると、そもそも長男のCさんや妻のBさんを被告にして訴訟を起こすJR東海のスタンスにも違和感を感じます。
鉄道会社からみれば、今後、高齢化に伴い似たような鉄道事故が起きる可能性があるので、親族に監督をしっかりとさせたいという意図があったのでしょう。
しかし、公共交通機関として国民全体から乗車利用料の支払いや独占的な事業経営の国からの認可という恩恵を被っている鉄道会社が、日本全体で起きる高齢化と親族の重い介護負担を、個々人に追及すべきでしょうか?
そのリスクは、保険に入ることや細分化して利用料に上乗せするなどして、国民全体で負担すべきものなのではないでしょうか?
最高裁が「監督義務違反かどうか」という内容に踏み込まないで、「そもそも『監督する法定の義務を負う者』ではない」と一刀両断したのも、そのような考え方が背景にあったように思えます。
やはり、「アホ」と言われても「人としてどうか?」という観点は捨てたくないものですね。
相続の一般的なご説明についてはこちらをご参照ください。