私は高校3年生の進路指導の時に、「文学部で国文学を学びたい」と強く希望しました。
幼稚園の頃からフィクションからノンフィクションまでジャンルを問わず本を読んでいました。
その中でも、私は、芥川龍之介や太宰治などの繊細で、孤独な雰囲気が大好きだったからです(変人と言われてもしょうがありませんね・・・)。
ところが、担任の先生(政治経済を専門に教えていた先生です)と両親から、猛反対されました。
「文学なんかでメシが食えるか!」
まさに正論です。
それでも、私がどうしても折れようとしなかったところ、父親から最後通告を受けました。
「文学部へ行くんだったら学費も仕送りも出さない。」
そこで、さすがに頑固な私も、「高校3年生の信用ではアパートすら借りられないだろうし、今から奨学金を申し込んでも相当に難しいだろう」と考えました。
そこで、やむを得ず、現実的には経済学部か法学部を選択せざるを得なかったのです。
もう、文学部でなければ学部などどこでもよかったので、担任の先生と両親が学部を決めました。
それが、当時「潰しがきく法学部」だったわけです。
担任の先生が法学部出身だったことも関係したのだとは思います。
私は、学校の勉強というものに目的意識を感じていなかったので、勉強の場は授業と無理矢理、通わされた英語と数学の塾だけでした。
ほとんどの時間は、(こっそり)好きな本を読むか、ギターで曲をコピーしたり、作詞・作曲や小説を書いたりしていました。
そのため、塾に行かされていた英語と数学、子供時代からの読書で対応できた国語の3科目だけは成績が、そこそこ良かったのですが、他の科目は惨憺(さんたん)たる有様でした。
特に、記憶する時間を必要とする世界史・日本史などの成績はひどかったことを覚えています。
一応、国立大学も受験しましたが、合格するはずもなく、英語・数学・国語で勝負できる私立大学に絞らざるを得ませんでした。
「どうせ、文学を勉強できないんだから、大学なんてどこでも良い」と考えていたので、3つくらい受験して、たまたま合格した大学に入学したのです。
ところが、大学に入って音楽のサークルで自分たちで作詞作曲をしたり、文学部のゼミに参加したりすると、大学が楽しくてたまらなくなりました。
大学では、学部を問わずに集まったサークルの友達と、酒を飲みながら音楽や本についての議論を一晩中したりしました。
また、ヘタクソながら音楽のライブをやったり、仕送りだけでは生活できなかったので、数多くのアルバイトを経験しました。
授業は、出席をとる授業以外は、自分が学びたいと思う授業にだけ出るという自由(いいかげん)な生活をしていました。
若さ故だとは思いますが、「あんなバカな生活は二度とできないな」と卒業するときに思った記憶があります。
その結果、私の成績は、文学部で履修できる科目はすべてA評価をいただいたものの、法律科目のほとんどはC(合格ギリギリ)という成績でした。
その成績を引っ提げて、企業の就職活動をすると、面接官から「キミ、大学の法学部で一体何をやっていたの?」と、すべての面接が圧迫面接となってしまいました。
当然ですよね。
もちろん、大手の民間企業には、どこにも就職できませんでした。
そこで、私は「今の自分をもっとも高く評価してくれるところはどこだろう?」と大学4年生の4月になって考えました。
さすがに「作家になる」というのは、余りにもリスキーで選択肢から早々に外しました。
そこで、試験の一発勝負で就職させてくれる公務員という仕事が、一番自分を公平に評価してくれるのではないかと考えたのです(当時は、面接では5%程度しか落ちませんでした。)。
国家公務員のうちキャリア(国家一種)は、自分の大学からして非現実的です。
かといって、国家二種というと広範囲で転勤があります。
また、地元の市役所も検討しましたが、私の年度にはその市役所では募集ゼロだったので、受験できませんでした。
そこで、当時住んでいた東京都庁と実家のある静岡県庁を比較して、どちらかというと入るのがやさしそうな静岡県庁を選んだわけです。
そこから試験までの2カ月半は、実務教育出版の公務員テキストを購入し、図書館に毎日通って猛勉強をしました。
友人からは、あまりの生活の変わりように「谷川は頭がおかしくなった。」と言われました。
試験を受けた後の感触は非常に悪かったのですが、結果的に静岡県庁に合格できました。
理由は、おそらくですが、
本を大量に読んでいたことにより知識・理解力・判断力・想像力が自然についていたこと
文系の中では数学を得意とする方だったこと
から、「判断推理」「数的推理」という得点が難しい科目で高得点をとれたことだったのだと思われます。
そういう意味では、高校時代に数学の塾に通わせた両親のおかげもあったわけですね。